桂浜で初日の出を見ましょう!

坂本龍馬の銅像 ー 高知の桂浜公園内

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坂本龍馬の銅像について

坂本龍馬像

昭和3年5月27日(第二次世界大戦以前の5月27日は海軍記念日とされていました)に高知の青年たちの募金活動(今で言うクラウドファンディングですね)によって建設されました。

坂本龍馬像は、高知県宿毛市出身の彫刻家、本山白雲もとやま はくうんの代表作と言われてます。

銅像の本体が5m30cm、台座を含めると13m48cmあり、日本では最大(級)とされています。

本山白雲曰く銅像の向きは東京の皇居の方向に向け、顔の向きは少し右を向き龍馬の志であった太平洋の向こうの世界を見据えるようにしたとか・・・。

山本白雲の制作報告より抜粋
…銅像の東面せるは遥かに九重の宮闕(皇居)に対して勤王の至誠を表はし、南太平洋を望めるは、志海にありと豪語せし先生の雄図を表現するものなり。身長1丈7尺3寸、絶へて東洋にその例を見ず。但し、像の巨大を誇らず、この壮業を企て遂げし土佐青年の意気を尚しと為す…

よれよれの袴に太刀を持たずブーツを履いた姿は、龍馬らしい姿だとされています。

この龍馬の銅像は、台(机?)に肩肘を乗せた誰もが一度は目にした有名な龍馬の写真がモデルになっています。その写真は慶応2年(1866)に長崎で撮影されたとの説が有力みたいですね。

実は当時の写真は数十秒間じっとしていないと撮影できないカメラ(湿板写真)だったため、動かないように台に寄りかかっていたのかもって話もありますね。

また、当時の写真撮影で良く使われていた首の後ろから頭を固定する「首押さえ」なる器具も装着していたのかも知れません。

撮影は、長崎出身で日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)であった上野彦馬うえのひこまと言われていたようですが、最近では彦馬の弟子による撮影だった。・・・が定説みたいです。

ちなみに龍馬の写真は足をクロスさせていますが、この銅像の足はそのままでクロスしていません。

坂本龍馬の横顔 – 銅像横の説明板より

坂本龍馬は高知の城下町に住む郷士の次男として生まれ(1835年)、青年時代江戸に出、千葉道場で北辰一刀流を学び剣士としてして知られているが、文久元年(1861年)、いちはやく武市半平太たけちはんぺいた瑞山ずいざん)の土佐勤王党に参加した。

後、脱藩して勝海舟かつかいしゅうに師事して海軍建設を計画し、又長州(山口県)の桂小五郎かつらこごろう木戸孝允きど たかよし)、薩摩(鹿児島)の西郷隆盛さいごうたかもりを説いて慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟契約を成功させ長州に押し寄せた幕府軍(徳川方)を撃破した。

これを機会に倒幕運動が高まったが、龍馬はこの薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古を考え、土佐藩の参政後藤象二郎ごとうしょうじろうを説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。

山内容堂やまうちようどう(15代藩主)は後藤の提案を受け入れて慶応3年(1867年)10月3日将軍慶喜よしのぶ大政奉還建白した。

将軍も時勢を察し、10月14日に政権返上を朝廷に上奏した。

龍馬はこれを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町近江屋で幕府方の刺客に襲われ、同志中岡慎太郎なかおかしんたろうとともに凶刃に倒れた。

龍馬は海援隊長。慎太郎は陸援隊長として土佐藩の友軍をつくり、その活躍が期待されたが、幕末の新旧勢力対立の犠牲となった。

時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。

姓名にはルビ(送り仮名)を追加しました。
王政復古(おうせいふっこ):徳川幕府を廃絶し、政権を朝廷に戻すこと。
大政奉還(たいせいほうかん):徳川幕府が朝廷に政治を行う権利を返上したこと。
建白(けんぱく):政府・上役などに自分の意見を申し立てること。またその書面。
上奏(じょうそう):大臣・議院・官庁等が天皇に意見を申し述べること。

懐に入れた龍馬の右手に隠された物

桂浜子ちゃん
桂浜子ちゃん

懐に入れた右手の先にはいったい何を持っていたのでしょうか?

先に言っとくけど、iPadじゃないよぉ~。笑)

ガイドさん
ガイドさん

色々な説がありますよね。万国公法、財布、ピストル、懐中時計、ケガの包帯を隠していた、胃潰瘍だった、何も持っていない。などなど・・・。

Ryoma
Ryoma

そんな事を想像しながら眺めてもうたら、嬉しいちやぁ~。

坂本龍馬像の前後のプレート

坂本龍馬像の前部 坂本龍馬先生
◆台座前部には、”坂本龍馬先生”と書かれています
坂本龍馬像の後部 本山白雲
◆台座後部には、龍馬像製造に関わった名前あり

龍馬の向く東方向の約21km先の芸西村琴ヶ浜には龍馬の妻であったお龍と妹の君枝の銅が像龍馬に向かって手を振るように建てられています。さらに、約63Km先の室戸岬には龍馬とともに刺客に襲われ暗殺された中岡慎太郎像があります。

※距離はGoogleアースの定規により直線で算出しています。

坂本龍馬像の修復履歴

この龍馬像は、長年の潮風にさらされ足元の台座部分が傷んだため、平成10年より全国から改めて募金を集め平成11年春から修復工事を実施し補強が完了し、今後100年は大丈夫だろうと言われています。

  • 昭和58年(1983):銅像変色、台座の亀裂などを修復
  • 平成元年(1989):建立60年の節目の年に状況調査を実施し応急的な修復
  • 平成11年(1999):倒壊の危険性があるとの専門家の指摘で本格修復

平成11年(1999)の抜本的な修復時は龍馬像を台座より下ろして修復しました。その際に銅像重量を計測したら、2,974Kgでした。龍馬像が台座から下りた期間は約1カ月余りとのことです。

募金目標額の5,000万円に対し、11,350件、5,941万円の寄付金が集まりました。

全国の龍馬愛がハンパないです。

(追記)地図に残る仕事 – Vol.023 坂本龍馬像 by WEB.LIBRARY.TAISEI
修復工事は大成建設さんが行ったようです。当時の様子がWEB上にアップされていましたのでリンクしてましたがリンク切れなったのでキャッシュから抜粋して書き残しておきます。

【龍馬像の修復工程】

  • 1999年1月20日 修復工事スタート
  • 1999年2月12日 龍馬像本体を台座から初めて外し、特設の修復台へ移動
  • 1999年3月11日 修復台から高さ8mの台座の定位置に戻る
  • 1999年3月28日 完成

夏場の表面温度は恐らく80℃~90℃位になると思われる。鋳造記録が不明だったので下してみないと詳細が分からなかった。頭からブーツの先まで空洞だったが内部の方が痛んでいた。像内部は鉄のボルトナットを使って締め上げてあったが、鉄が腐食しボロボロに錆びている状態だった。修復するギリギリのタイミングだった。

ロケーション (マップ)

本山白雲(もとやま はくうん)明治4年(1871年)~ 昭和27年(1952年)は、高知県宿毛市出身の彫刻家で、高知市出身の漫画家であり、代表作のフクちゃんで有名な、横山隆一が弟子入りした人物です。

維新の元勲の銅像で彼の手にかからなかった物は殆どないと言われ、その作品数は建立された銅像だけでも40体以上、その他の作品は全国各地に300体以上に及ぶといいます。しかしながら、その後の第2次世界大戦時に多くの銅像が金属供出で撤去されました。

ですが、この龍馬像は海軍の創始者の象徴として残されたようです。

龍馬像の他には、高知城公園にある山内一豊像と板垣退助像も本山白雲の作品ですが、これらも金属供出後の復元になります。

ウィキペディア(Wikipedia):本山白雲

桂浜以外にある坂本龍馬像

桂浜以外にも龍馬にゆかりのある地には龍馬像があります。

とりあえず、10体ほど調べてみましたが、まだまだあるようですね。さすがです。

  1. 高知県高岡郡梼原町 維新の門の8群像の1人
  2. 高知県高知市 坂本龍馬記念館前(シェイクハンド龍馬)
  3. 高知県高知市 龍馬の生まれたまち記念館 (ベンチに座る龍馬)
  4. 香川県多度津 旧伊予土佐街道・牛屋口
  5. 長崎市伊良林 風頭公園内
  6. 長崎市伊良林 若宮稲荷神社(風頭公園の像の原型)
  7. 京都市伏見区 寺田屋前
  8. 京都市中央区 土佐稲荷神社境内
  9. 京都市右京区 松巌寺墓地内
  10. 京都市東山区 円山公園内 中岡慎太郎と2人で