【桂浜の研究】校外指導資料 “序文1.名勝桂浜へ” より(1/4)
◆昭和中期頃までに発行された土佐電氣鉄道株式会社のパンフレットより抜粋
昭和33年にタイムトリップして当時の路線バスに乗って堺町から桂浜へ行ってましょう。
桂浜の研究の文中に出てくる場所や史跡などについては、平成31年に撮影した写真を挿絵として挿入しています。
昭和の中期を懐かしむとともに、平成最後の年に撮影した写真でお楽しみください。
路線バスで名勝桂浜へ
(10)西南浦
西南浦は俗に並集落集落と呼ばれています。地曳網を曳いている半農半漁の人々が多いですが、浦戸では農家の最も多い所で、園芸をやっているのもこの集落です。
(11)東南浦、六大地蔵
◆六大地蔵
並集落を過ぎ、南浦と呼ばれる東南浦を過ぎるあたりの松林の中に、六大地蔵と呼ばれる、六つの等身大の地蔵が立っています。
これはすぐる慶長五年、関ヶ原の戦いに長宗我部盛親は敗れ、德川方の鈴木重好が、土佐受取のため浦戸にやってきました。
盛親の旧臣、一領具足の士は、主将八人、兵一万七千で城により、命令を聞かず戦いましたが、二百七十三人の戦死者を出し、敗れました。
これ等の人の冥福を祈るためにつくったのがこの六大地蔵です。
◆一領具足の碑
またここには、土井晩翠氏の詩を刻んだ一領具足の碑が建っています。
(12)宇賀神社
◆宇賀神社
南浦の海岸に臨み、松並木の中に孤立した岩山があり、ここに東南浦、西南浦の氏神様である宇賀神社があります。
宇賀魂が祭神ですが、相当古くからのもので創建は詳でありません。
その昔長浜に住んでいた、大富豪の宇賀長者が、沢山の所有地から、年年
(13)貯水タンク
トンネルの上の山に貯水タンクがあります。このタンクの水は井戸から吸い上げられたもので、浦戸地区の人々に飲料水を供給しています。
(14)浦戸の港
◆浦戸トンネル
間もなくバスは浦戸トンネルへは入ります。
このトンネルは、戦時中長浜藻洲潟に高知県造船所が造られ、従来浦戸湾側を通っていた長浜・浦戸間の道路がつぶされたため、昭和十八年につくられたものです。
トンネルを出ると、波静かな内海が開けてきます。車の左手の方へ行く道は長浜への近道で、トンネル開通までは相当利用された海岸道で、今も徒歩や自転車で、長浜やみませに行く人達が往来しています。
この道を少し行くと、真珠養殖場があり、このあたり一帯をたで場といいます。
藩政時代、藩船をたでた(船の底についたかきなどを落し焼く)所だというので、地名として残っています。
ここより浦戸西集落ですが、道路はいよいよ狭く、両側の軒はバスにふれる感じがします。
少し行くと海をへだてて、千松公園に続く種崎造船所が手にとるように見え、船をつくる音が聞えてきます。
最近までここに高知棧橋より巡航船が来ておりました。
経営困難で浦戸棧橋も取りこわされ、その姿はなくなりましたが、高知港に出入りする、大小様々の船影にうっとり見入ることができるでしょう。
間もなく浦戸東集落となり、高知市役所浦戸支所、駐在所、消防署があり、この前の坂を登れば浦戸小学校があります。
(15)魚市場、観海亭
◆観海亭辺り
バスは魚市場を通ります。ここには漁業協同組合もあり、浦戸の人達のとってきた魚は、一度この市場に水揚げされ、取引されます。
その大部分は高知の魚市場へ、オート三輪や船で運ばれます。
ここの取引は殆ど午前四時頃です。十月から翌年の四月まで底曳漁業があり、この水揚げ如何によって、浦戸の景気は左右されるといいます。主に赤物がとられて来ます。
◆観海亭 ※僅かに観ることができますが廃墟となっています
この市場の東側に
浦戸御殿ともいわれ、藩政時代の山内氏の別邸で、用材が栂(とが)であるため一名栂御殿ともいわれています。
ここは乘初式の時藩主が御覧になった建物で、現在は○○氏の所有になっています。
三百年来の建築で桃山時代の様式を整えています。
また儒者谷一斎の筆になる「観海亭」の額があります。
この亭は山内容堂の非常に愛した所でもあります。
山内豊房もこの亭で「ながめては帰らんものをこの夕、月と波とのあかぬ光を」とよんでいます。
◆浦戸&桂浜辺りのマップ
つづく