龍馬に大接近(秋)は令和元年9月28日(土)~11月24日(日)です。

昭和33年にタイムトリップして名勝桂浜へ行く(雪渓寺から浦戸まで)Vol2

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【桂浜の研究】校外指導資料 “序文1.名勝桂浜へ” より(1/4)

【桂浜の研究】昭和中期の桂浜へのバスルート
◆昭和中期頃までに発行された土佐電氣鉄道株式会社のパンフレットより抜粋

昭和33年にタイムトリップして当時の路線バスに乗って堺町から桂浜へ行ってましょう。

桂浜の研究の文中に出てくる場所や史跡などについては、平成31年に撮影した写真を挿絵として挿入しています。

昭和の中期を懐かしむとともに、平成最後の年に撮影した写真でお楽しみください。

路線バスで名勝桂浜へ

(5)雪蹊寺(せっけいじ)

【桂浜の研究】雪蹊寺
◆雪蹊寺の入り口付近

車は長浜停留所にはいりました。ここから西方、4~500メートルの所に雪渓寺があります。

この寺は僧空海の開基にかかるもので、保寿山高福寺ほじゆざんこうふくじといっていました。

御本尊は薬師如来で、運慶、湛慶作の仏像が安置されています。天正年間長宗我部氏が浦戸城に移ってからは、菩提寺として、城下唯一の名寺として栄えたものでした。

慶長四年元親が歿し、その法号雪蹊をとって、高福山雪蹊寺といわれるようになりました。明治の廃仏き釈にあたり、一時廃寺となりましたが、明治十二年十月再興を許され、十四年本堂その他の諸堂を建立しました。

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当寺には国宝が十六体あり、土佐七十九の仏像国宝の五分の一を宝蔵しています。

有名なものは、本尊の薬師如来像、十二神像、ビシャ門天像です。中でもビシャ門天像には、その左足の指に湛慶の銘があります。このように真銘のある湛慶作は日本でも珍らしく、貴重なものとされています。

(6)御倉(おぐら)橋

【桂浜の研究】御倉橋
◆御倉橋 ※現在は時間帯によっては一方通行になっていてバスもその時間帯は別ルートを迂回しているようです

バスは長浜の町を進んで御倉橋を渡ります。

長浜川にかけた橋で、藩政時代この橋の西南方に米倉があったので、この名があります。

米倉は山内家の倉庫で、吾川郡の東部一帯の貢物を貯蔵したものです。

この橋の右手に見えるのが長浜小学校です。

(7)横田野

バスが更に進むと視野がひらけ、前方に広い畑が見えてきます。

右手の南海中学からその前にかけて、以前は長浜の競馬場がありました。美しい松原と一緒に無線電信の塔が見えてきました。

高知県の競馬場は、山田競馬場→長浜競馬場→桟橋競馬場→高知競馬場へと移転していったようですね。

長浜競馬場は、国土交通省 国土地理院のサイトにおいて確認できます。現在の南海中学校の南側から南海公園にかけてあったようです。

(USA M1194-A 2) 1948(昭和23年)/10/19に米軍が撮影。
左ペインの検索結果のコース番号を選択後、コンテンツ操作「高解像度表示」するとクッキリと確認できます。本頁のトップの路線図には桟橋競馬場が描かれています。

(8)無線電信送信所

あの鉄塔の高さは45メートルあり、全部で4基あります。

送信所の中には、無線電信機、移動用無線機、停電に備えジーゼル発電機が備え付けられています。

ここは昭和十五年に、軍隊の航空無線局無線送信所として生まれ、飛行機や、日本各地の飛行場に電波を送っていました。

戦後は高知電報局からの、名古屋以東の電報送信に使われています。

また海難救助に活躍している、海上保安庁に入る電波もここでキャッチされています。

松原に映える美しいアンテナを右手に、しばらく進むとバスはいよいよ浦戸に入ります。

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(9)浦戸の地形と沿革

浦戸は浦戸湾の入口にあり、南は外海の太平洋に、北と東は内海の湾に面し、西は長浜に続いている2キロばかりの半島です。

この半島の背骨には、俗に浦戸山と呼ぶ、御領寺山脈が東西に走り、湾に迫っているので、湾岸には岬あり、入江あり、暗礁、岩礁があって変化に富んでいます。

外海に面している南海岸は、変化なく単調ですが、文字通りの白砂青松の美しい眺めが東西に続いています。半島の先端が名勝地桂浜で、稲荷ヶ鼻の西入江は、承平の昔より知られ、紀貫之の土佐日記に出てくる浦戸の港です。

ここはその昔、長宗我部元親が城を構えた浦戸城の地で、当時は土佐一国の城下として、土佐文化の中心となり、政治的には重要な地であり、家臣の邸宅は桂浜、浦戸、対岸の種崎まで並びたち、とても華やかな城下町でした。

残念な事には関ヶ原の戦いに、西軍に組して戦った元親の子盛親はのぞかれ、山内一豊が土佐の国に藩主として入国後、城を高知城に移したため、土佐一国の文化の花を咲かせた浦戸も、その後幾変遷をした事と思いますが、政治的、文化的にも、昔のように記録すべきものもなく、吾南の一漁村として、外海を職場として、日々の生活を営んできました。

昭和十六年高知市に合併し、みませと共に高知市の重要な漁業地区となりました。

一方狭い土地は漁夫のねぐらとしてのいこいの場所に過ぎなかったのですが、最近は多角農法の研究が高まり、園芸作物等で注目されるようになってきました。

この地区には五つの集落があり、それぞれの特徴がありますが、バスの最初にはいるのは西南浦です。

つづく

ここに掲載した内容は、昭和33年2月に発行された「桂浜の研究」と言う校外指導資料に掲載された”序文1.名勝桂浜へ”を電子化したものです。JIS字に無い旧字体は現在の字体に変更しています。原本には写真は無いので平成最後の年(平成31年4月)に撮影した写真を添付しています。また、判る範囲で現在との差異も追記しました。

この記事を書いた人
taniYoka

桂浜から車で8分ばぁが自宅の高知市民です。高知の観光名所でありながら(地元目線で)桂浜について解説したサイトが少ないので勝手に色々書いてます。

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