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昭和33年にタイムトリップして名勝桂浜へ行く(堺町から長浜城跡地まで)Vol1

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【桂浜の研究】校外指導資料 “序文1.名勝桂浜へ” より(1/4)

【桂浜の研究】昭和中期の桂浜へのバスルート
◆昭和中期頃までに発行された土佐電氣鉄道株式会社のパンフレットより抜粋

昭和33年にタイムトリップして当時の路線バスに乗って堺町から桂浜へ行ってましょう。

桂浜の研究の文中に出てくる場所や史跡などについては、平成31年に撮影した写真を挿絵として挿入しています。

昭和の中期を懐かしむとともに、平成最後の年に撮影した写真でお楽しみください。

桂浜へ

高知から桂浜に行きますには、県交バスが主で、この外に土電バスもその一役を買っています。

この外に巡航船の便がありました。これは遠く明治時代の末期より運航されて、今の農人町より、仁井田・みませ・種崎・浦戸と、その頃の人々の足となっていました。

この巡航船で美しい湾内の島の中をめぐることは、県内の人ばかりでなく、県外の人々の目をみはらせたものでした。では、堺町から桂浜行きのバスに乘りましょう。

市内の電車通りを行くこと約十分で宇津野トンネルに入ります。

土佐電気鉄道・高知県交通(=県交バス)・土佐電ドリームサービス(=土電バス)の3社が平成26年10月1日に事業統合され、とさでん交通となりました。現在の桂浜行きは、JR高知駅が始発となっているので堺町からは乗車できませね。

路線バスで名勝桂浜へ

(1)宇津野(うつの)トンネル

【桂浜の研究】宇津野トンネル
◆宇津野トンネル(左手:1車線) ※新宇津野トンネル(右手:2車線)で昭和46年開通

このトンネルは、昭和26年8月に開通されたものです。その長さ590メートル、巾5.52メートルです。

このために湾岸をまわる不便がなくなり、1.5キロメートルも短縮されました。そして徒歩で25分、バス便で5分も短かくなりました。

執筆当時は左の一車線分のトンネルしかありませんね。
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(2)玉島(たましま)、続島(つづきじま)

【桂浜の研究】玉島と続島
◆玉島、衣ヶ島、続島

トンネルを出ると、視界が開けます。車の左に浦戸湾をのぞみ、美しい玉島、続島と見えてきます。

玉島は昔神功じんぐう皇后が御巡幸の時、磯辺で真珠の玉を拾われたので、玉島と名がついたといわれています。

また、この島は樹木の茂った島で、からすのねぐらとなり、朝夕何百の烏のいききをみます。そこで一名を巢山ともいっています。

この島の西方に二つの島がならんでいます。この島を続島といいます。

この島は満潮の時は離れ島となり、干潮の時は島続きとなります。それで続島の名がついたものであるといわれています。

【桂浜の研究】仁井田神社
◆仁井田神社

島には仁井田神社があり、孝霊(れい)天皇ならびに皇后の外に四柱の神がまつられています。さながら高知の松島といわれるようなこの眺めも、南学の泰斗、谷時中先生の眠る箕越みのこし山にその姿をかくします。

(3)瀬戸潮田(しおた)

車はやがて、長さ40メートルの瀬戸堤を左に見ながら、黄金の波打つ稲田へと進みます。

この田は瀬戸潮田と呼ばれ、元和年間谷時中先生が瀬戸堤を築き、瀬戸から遠く長浜塩谷(しおや)に及ぶ大きな入江を今のような美田となされたものです。

時中先生の埋立築堤の工事は、現在横浜や長浜の人々が大きな恩恵を受けているだけでなく、先生門下の野中兼山先生が志を得るに従って大きな事業を起し、郷土開発に力をそそがれた事を考えると、先生の教えや感化がその主な原因であるとはいいながらも、大いに注目すべき点でしょう。

【桂浜の研究】清川神社
◆清川神社 ※左奥に谷時中先生碑あり

瀬戸の人々は、潮田を一目で見下せる箕越みのこし山に先生の骨を埋め、清川きよかわ神社として祭っています。そしてその神祭には、堤の上に宴を張り先生の遺德を今でもたたえています。

(4)長浜城趾

【桂浜の研究】長浜バス停
◆長浜停留所 ※長浜営業所でしたが平成30年8月31日に窓口業務を終了しています

さて車は進んで長浜停留所に間もなくはいります。

酸素工場の後方に樹木の茂る城山があります。山頂は東西16メートル、南北12メートル位の平地があり、近年まで礎石がちらばっていましたが今はなく唯樹木が生えているだけです。

ここは永禄年間まで本山氏の支城である長浜城があり、大久保美作守みまさかのかみが立籠っていました。永禄三年の初め、長宗我部国親が岡豊から船一艘に兵糧を積み、種崎の城に運ばせました。

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ところがこの船が孕の渡合とあいにきた時、本山茂辰しげときの領地である潮江から、二艘の船がおそいかかり、兵糧船を奪うという事件が起りました。本山茂辰は海賊の頭三人の首を切りあやまりましたが、国親は承知せず、本山氏と長宗我部氏の仲が悪くなりました。

その頃長浜に福原左馬亟さまのじょうという上手な大工がいました。左馬亟は岡豊の人でしたが不都合があり、長浜にきて大久保美作守の扶持を得てここに居住していましたが、ひそかに岡豊に行き、国親に「私は先年不慮の過失で御怒りにふれ当地を立去り、今は美作守に仕えていますが、御許しがあれば命を捨てて忠節を尽します。」と申立てました。国親は天の助けと喜び、本山茂辰への事始に長浜の城を夜討ちにするから手引きせよと命じました。

左馬亟は喜び「私は長浜城の棟梁ですので、城内の事は良くわかっています。それに昼夜共出入りが許されているので好都合です。」と手引きを引受け長浜に帰りました。

国親は三百人の強い兵をよりすぐり種崎の城に遣して置きましたが、五月二十六日の夕方から風雨が烈しくなりましたので、時はよしと、これ等の兵は夕方から種崎を出てみませに渡り、左馬亟の合図を待ちました。

城主の美作守は風雨の夜を家来たちを集めて酒もりをしていました。この様子を見て左馬亟は、長宗我部勢を手引きして城に火を放ちました。城主美作守は命からがら逃げました。

こうして長浜城はなくなり、今は昔の城跡に木が茂っているだけです。

つづく

ここに掲載した内容は、昭和33年2月に発行された「桂浜の研究」と言う校外指導資料に掲載された”序文1.名勝桂浜へ”を電子化したものです。JIS字に無い旧字体は現在の字体に変更しています。原本には写真は無いので平成最後の年(平成31年4月)に撮影した写真を添付しています。また、判る範囲で現在との差異も追記しました。

この記事を書いた人
taniYoka

桂浜から車で8分ばぁが自宅の高知市民です。高知の観光名所でありながら(地元目線で)桂浜について解説したサイトが少ないので勝手に色々書いてます。

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