龍馬に大接近(秋)は令和元年9月28日(土)~11月24日(日)です。

令和になって改めて考える。桂浜の大町桂月記念碑の移転はこれで本当に良かったのか?

この記事は約5分で読めます。

この投稿は、大町桂月先生の病没日である6月10日に投稿しています。

古い絵葉書にある大町桂月記念碑の台座部分が今とちょっと違うようだったので調べてみたら「あれれ?」って感じだったので令和の今、改めて考えてみましょう。

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桂浜と文豪大町桂月

桂浜の大町桂月記念碑(現在の場所)
◆現在の場所(桂浜ビューポイント下)

(高知市出身の)大町桂月は酒と旅を愛した文人で、青森県の十和田湖と奥入瀬をことに愛し、晩年は同地の蔦温泉(現在の十和田市)に居住したとのことですが胃潰瘍のため温泉旅館で死去したとされています。

享年57歳。明治2年(1869).03.06~大正14年(1925).06.10

アルコール中毒で何度か入院したり、酒席で失敗を繰り返した様ですね。

今の診断ではアルコール依存症だったってことでしょうか。

アルコール中毒で北海道の病院に入院したのが大正7年5月から1ヶ月間らしいのですが、同年夏頃に38年ぶりに土佐の故郷を訪れ、同郷の愛弟子田中桃葉(貢太郎)と、

「見よや見よ みな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」

と作歌したのは有名で、この歌が大町桂月記念碑の脇にも刻まれています。

当然、来高の際も毎夜宴会があったとされています。

かつて大町桂月記念碑は椿の小路にあった

桂浜の大町桂月記念碑
◆椿の小路にあった頃の大町桂月記念碑

大町桂月記念碑の建碑は、昭和3年(1928年)です。

没後の3年目になります。

土佐の文化人などが名を連ね、長浜村長や元県議会議員、元市議会議員などが中心となり募金(目標は1,500円)を募り建てたとありました。

ちなみに同年には、坂本龍馬像も建立されています。

桂浜ビューポイントから椿の小路への階段を上がったスグ近くの右脇に大町桂月記念碑がありました。(絵葉書の写真)

記念碑の周辺には雑草が生い茂っているし背後の雑木も今の様子と全く違うので疑問に思ったわけです。

過去には病没日に、この場所で「酒供養」が開催されていたようですが、昭和30年代頃に何故か中秋の名月にあわせて酒供養も開催するようになったようです。

椿の小路は当サイトでは桂浜と坂本龍馬記念館(国民宿舎 桂浜荘)へのルートして紹介していますが、桂浜(本浜)だけを観光する場合は余り通る道ではありません。

※本投稿を読み終えた後にリンク先の動画(開始後30秒後)をご覧下さい。

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大町桂月記念碑の移転

椿の小路は桂浜の遊歩道でも無く桂浜(本浜)を散策する場合は、観光客が通る場所ではありません。

つまり、観光客の方々の目に触れる機会は殆どありません。

そんな訳で「もっと目につく場所へ」との理由で、昭和60年(1985)3月5日~20日にかけて、当時の管理者である桂浜公園開発公社が計画し大町桂月記念碑を現在の桂浜(本浜)に移転しています。

移転は、36mの大型クレーンで吊り上げて碑部分(2トン)と、台座部分(2.4トン)礎石37個が対象になりました。

移転後は現在の場所で、桂浜ビューポイント直下の桂浜(本浜)です。この場所は、かつて桂浜水族館があった場所です。

ちなみに、大町桂月記念碑の場所は「月見の広場」と言うようです。

桂浜には碑はいくつかありますが全ては遊歩道または道路脇となっています。大町桂月記念碑だけは専用の通路がありちょっと別格と言えば別格なのですが・・・。

大町桂月記念碑の形を改めて考えてみる

桂浜の大町桂月記念碑(現在)
◆大町桂月記念碑の石碑の形

先の古い絵葉書の写真と比べると風雨に晒されて随分と丸みを帯びていますが、記念碑の上方より下方がやや細く上方の片方が大きく張り出しています。どんな形に見えますか?

 :

まるで帆船の帆の様ではありませんか?

実はこの大町桂月記念碑は、帆をイメージした形で船体と一緒にあったものでした。

昭和3年から昭和60年までの57年間も・・・。

現存する大町桂月記念碑の船体(土台)部分

桂浜の大町桂月記念碑(船体1)
◆明らかに船体の形をした大町桂月記念碑跡(1)船首部分

現在、椿の小路には桂月碑の土台であった船体の部分(幅約3.5m,長さ約7m)がひっそりと取り残された状態で現存しています。

桂浜の大町桂月記念碑(船体2)
◆明らかに船体の形をした大町桂月記念碑跡(2)船体中央より船首

桂浜の大町桂月記念碑(船体3)
◆帆があった場所はコンクリートで固められています

碑の移転場所と状態はこれで本当に良かったのか?

桂浜の大町桂月記念碑(読んだ歌)
移転後の桂浜(本浜)の頭上には、24年間も従遊した愛弟子の田中桃葉(貢太郎)の碑があるのですが、生前に田中桃葉(貢太郎)は、桂月先生より上に建ててもらっては困ると語っていたとか・・・。

大町桂月記念碑が何故帆船なのかについては、桂月先生が太平洋へ漕ぎ出す様を表していると言う話があります。

・・・が、椿の小路の坂部分を利用して建てられていたので平らにするために船体にしたのでは?

との某有識者会の見解により「大町桂月記念碑」と書かれた帆のみを移転対象としたようです。

出展は高知新聞ですが、この話題はケッコー大きく取り上げられていました。

出展:高知新聞(朝刊)昭和61年7月20日
見出し:移転の仕方、おかしいのでは・・・ 桂浜の桂月碑
小見出し:舟形土台残したまま 弟子・貢太郎碑より下に

愛弟子の想いや、記念碑と建立するにあたり尽力された方の想い、設計者の想いは叶えられたとは言えないのでは無いでしょうか。

本浜の大町桂月記念碑とともに、椿の小路にある取り残された船体も確認して考えてみてください。

この記事を書いた人
taniYoka

桂浜から車で8分ばぁが自宅の高知市民です。高知の観光名所でありながら(地元目線で)桂浜について解説したサイトが少ないので勝手に色々書いてます。

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