【桂浜の研究】校外指導資料 “序文1.名勝桂浜へ” より(1/4)
◆昭和中期頃までに発行された土佐電氣鉄道株式会社のパンフレットより抜粋
昭和33年にタイムトリップして当時の路線バスに乗って堺町から桂浜へ行ってましょう。
桂浜の研究の文中に出てくる場所や史跡などについては、平成31年に撮影した写真を挿絵として挿入しています。
昭和の中期を懐かしむとともに、平成最後の年に撮影した写真でお楽しみください。
路線バスで名勝桂浜へ
(16)桂浜
◆台風の余波の残る桂浜の竜王岬
ここを通り過ぎて、いよいよ桂浜へとは入りました。民家の間を走りようやく海が見え出したと思う時、車は桂浜終点に到着しました。この駐車場は、もとは海であったところです。
「みませ見せましょ浦戸をあけて、月の名所は桂浜」とよさこい節に歌われていますが、桂浜はたしかに浦戸湾口の名勝地であります。
右の
波の静かな砂浜でゆっくり洋上を眺めるのも、胸の広がる思いが致します。
また海が荒れ、怒り狂った波が竜王岬に碎け、すざましいしぶきが天を突く光景は壮観であります。
然し何と言っても美しいのは月の夜景でしょう。
仲秋の名月がはるか水平線上より静かに浮び上り、洋上に金波銀波のおどる美観はどう言ってよいのでしょう。唯うっとりさせられるばかりです。
やはり桂浜は月の名所です。
土佐の生んだ明治の文豪大町先生の桂月という号も、また桂浜月下漁郎と唱えましたのも、先生が桂浜の月の美しさを余程愛せられていたからの事でしょう。
先生の最も得意とする紀行文の一節に次のように書かれています。
「人家の間を過ぎて樹林の中に入り、樹林の中を出て砂浜に出づ、嗚呼これ余が多年夢想せし桂浜なり、余の心益々躍る。後に松林を控えて左に竜頭崎突出し、右に竜王岬突出す。巾数十間、長さ四五丁、おのづから区別をなして、万里の波濤おのづから来り、おのづから去る」
と、先生の筆にとり古くから桂浜は名勝地として知られ、一度も土佐に来た事のない人達にまで知られていました。
◆大町桂月碑 ※現在の場所とは異なっていたかも(調査中)
「見よや見よ、みな月のみの桂浜、海の面より出づる月影」と自然石に刻んだ桂月先生の記念碑がたっています。
また竜頭岬のいわお巌頭には、幕末の志士坂本龍馬先生の銅像を仰ぐことができますのは、土佐の誇りでありますが、名所としての桂浜の声価を、益々高めるに至りました。
先生が、幾百年の先までもはっきり見とおすかのように遙かに、太平洋の彼方を望んで、悠然と立っていられる姿を仰ぐ時は、おのづから敬虔の情がこみあげるのです。
慶応三年十一月二十五日、京都河原町の近江屋の二階で、同志中岡慎太郎先生と、王政復古を語り計画しながら、不慮の兇刃にたおれたのは何人も惜しむところです。
文人としての桂月先生、国士としての竜馬先生、この二人が土佐の入口浦戸湾の名勝地桂浜にゆかり深いのも、また不思議なことでしょう。
◆執筆された当時の桂浜水族館だと思われます ※今の場所より西方にありました
この浜には、毎年四季を問わず沢山の観光客がやってきますが、観光地の施設として水族館があります。昭和六年から、美しい自然をバックに近代的な建物ができ、中にはいきのよい魚がたくさん泳いています。
(17)展望台跡
浜の裏山に登ると、
このホテルの前のあたりに展望台がありました。
ここでは四方の景色を眺めることが出来ましたが、惜しいことに今はとりこわされてありません。
◆桂浜の展望台 ※昭和43年以前に発行された絵葉書より
然し県交通では展望台を作る事を計画しているそうですので、実現すれば遠くまで美しい景色を眺めることができるでしょう。
◆浦戸城のイメージ
展望台跡を今少し登ると、畑になってはおりますが、浦戸城本丸跡に出ます。
おわり